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「北条朝直」~大仏流北条氏の祖~

「北条朝直(ほうじょうともなお)」は、鎌倉幕府の評定衆などを務めた人物です。

父親は初代連署「北条時房」で、母は「足立遠元」の娘で正室でした。

朝直は、大仏流北条氏の祖としても知られています。

目次

生涯

時房の4男として生まれました。長兄「北条時盛」は佐介流北条氏の祖となり、次兄「北条時村」と三兄「北条資時」は突然出家し引退しています。

正室は「伊賀光宗」の娘でありましたが、貞応3年(1224年)6月の「伊賀氏の変」で光宗が処罰により流されます。

嘉禄2年(1226年)2月、第3代執権「北条泰時」の娘を新たな妻とするよう、父母から幾度となく提案されるも、当時21歳で無位無官の朝直は愛妻との離別を拒んでおり、泰時の娘との結婚を拒否し続けています。(「明月記」2月22日の記載より)。

朝直は長い間、執権泰時や連署である父時房の以降に反対し続けました。(妻ラブ♡)本妻と別れることが辛すぎて、出家の支度まで始め、混乱を招いています。(やれやれ!)

その後も長期間にわたり反抗を続けたようですが、5年後の寛喜3年(1231年)4月、朝直の正室となった泰時の娘が男子を出産したと「吾妻鏡」に記載があるため、最終的に朝直は泰時と時房の圧力に屈したと見られます。

この一件は、京都の公家にまで届いたとされますが、北条一族の婚姻騒動は幕府編纂書の「吾妻鏡」には記されていません。(不都合な事実だったのでしょうか・・・人間らしくて個人的には好きです(笑))

騒動はあったものの、泰時の娘婿となったことで六波羅探題を務めていた長兄の「北条時盛」に代わって時房の後継者とされ、武蔵守を任命されるなど、厚い待遇を受けましたが、時房流は分裂し、泰時の流れを汲む「得宗家」の政治権力がが確立されるて行く事となりました。

第3代執権「北条泰時」から、第7代執権「北条政村」までの歴代執権に長老格として補佐し続けましたが、寄合衆にはついに任じられることはありませんでした。

文永元年(1264年)5月3日、59歳で亡くなっています。

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