「足利持氏(あしかがもちうじ)」は、父「足利満兼」の嫡男として生まれ、第4代鎌倉公方を務めた人物です。在職期間(1409年~1439年)。
生涯
応永16年(1409年)、父である第3代鎌倉公方「足利満兼」がなくなり、第4代鎌倉公方となりました。
翌応永17年(1410年)8月、叔父「足利満隆」が持氏への謀反を計画していると風説が立ち、持氏が関東管領であった「上杉憲定」の邸宅へ逃げ込む事件が発生しています。(「鎌倉大草紙」より)
しかし、「上杉憲定」の仲介により持氏の異母弟の「乙若丸」を満隆の養子とすることで和睦しています。(一連の騒動を担ぎ上げた関東管領上杉氏への反対勢力だったことから、その責任を取る形で憲定は翌年、関東管領を辞任しています)
同年の12月、持氏は元服し第4代将軍「足利義持」より偏諱を受け持氏と名乗りました。弟「乙若丸」も、同様に「持」の字を受け持仲となのっています。
鎌倉公方として
持氏は若年で鎌倉公方となったため、新たに関東管領となった「上杉氏憲(後に改名し禅秀)」の補佐を受け政務を行っていました。
東北の奥羽は鎌倉府の管轄となっていたため、持氏の2人の叔父である篠川公方「足利満直」、稲村公方「足利満貞」が治めていましたが、応永20年(1413年)、これに対し「伊達持宗」が反乱を起こしたことから、持氏は奥州国人を集め反乱を鎮圧しています。。
持氏は徐々に執事を務めた関東管領「上杉禅秀」を煩わしく扱い始め、禅秀は持氏の叔父「足利満隆」、弟「足利持仲」と結んおり、対立は次第に激しいものとなって行きました。
応永22年(1415年)に禅秀は関東管領を辞職すると、持氏は「上杉憲基」を後任として関東管領に就任させています。
応永23年(1416年)、「上杉禅秀「足利満隆」は謀反を起こし、持氏と「上杉憲基」は鎌倉を追われて駿河に追放される「上杉禅秀の乱」を起こしました。
しかし、翌年に幕命を受けた越後の「上杉房方」、駿河の「今川範政」達らにより鎮圧され、禅秀、満隆、持仲の三名は自害し、持氏らは鎌倉に戻っています。
この翌年の応永25年(1418年)になると、関東管領の「上杉憲基」が急死してしまい、まだ幼い「上杉憲実」が後任となりました。鎌倉公方である持氏もまだ若く、それよりも幼い関東管領が補佐するという異常事態が発生しました。(漫才か!)
これにより、本来は関東管領に補佐されるべき鎌倉公方の命令を伝えるために、関東管領が作成する施行状を持氏本人が憲実の代理で作成するという状況が応永31年(1424年)まで続いていました。
将軍と対立し反逆に至るまで
持氏の祖父「足利氏満」の時代から京都の将軍家と鎌倉公方の対立はすでに始まっていました。
この時は関東管領「上杉憲春」が諫めるため自害したことで対立は未然に防がれましたが、関東の権力を求める将軍家と、それに抗する鎌倉公方の衝突は時間の問題でした。
応永30年(1423年)に京都扶持衆であった「小栗満重」が室町幕府の命令で反乱を企てたとし滅ぼし、続いて「宇都宮持綱」、「桃井宣義」を討伐し、関東から将軍家の息のかかっていた勢力を一掃しています。(応永の乱)
これに対し、室町幕府4代将軍「足利義持」は持氏討伐を計画しますが、持氏が謝罪したことによって中止となっています。
しかし、持氏の勢力拡大を快く思わない将軍家と、それに対抗しようとする持氏の対立は一層深まることとなりました。
応永32年(1425年)、5代将軍「足利義量」が病で亡くなると、正長元年(1428年)に第4代将軍「足利義持」も病死してしまいます。
将軍職が空位となり、持氏は自身が足利氏の一族であると主張し第6代将軍就任を希望しました。
しかし、管領の「畠山満家」や「三宝院門跡満済」らの協議によって、室町幕府第6代将軍は「足利義持」の弟4人のうちから籤引きで選出されることとなり、結果、天台座主だった義円が還俗し、「足利義教」として第6代将軍となっています。
第6代将軍に就任できなかった持氏は不満を持ち、新将軍の義教を「還俗将軍」と蔑み、義教へ祝いの使者を送りませんでした。
加えて、元号が永享に改元された後も前年号の正長を用い、将軍が決定するはずの「鎌倉五山」の住職を勝手に取り決めるなど、幕府と対立する姿勢を取り始めました。
関東管領「上杉憲実」は持氏と義教の融和に尽力しましたが、持氏はこれに応じずに逆に「上杉憲実」を遠ざけ、上杉氏庶流の「上杉憲直」や「一色直兼」、「簗田満助」ら重用し、やがて「上杉憲実」が持氏に討伐されるという噂がたつほどになりました。
永享9年(1437年)には「上杉憲実」は施行状の発給を止めると、すぐに関東管領を辞職しています。(これにより関東管領の施行状の発給は断絶しました。)
一方、京では「足利義教」と度々対立していた「斯波義淳」が永享4年(1432年)に管領を辞職し、「畠山満家」が翌永享5年(1433年)、満済が永享7年(1435年)に亡くなると第6代将軍「足利義教」に還元できる者がいなくなってしまいました。
永享の乱
永享10年(1438年)6月、持氏の嫡子「賢王丸」の元服の際、慣例に従えば将軍に一字を拝領するはずでしたが、これを無視し「義久」と名付けています。
「喜連川判鑑」によれば、元服式は「源義家」の先例を調べて行われたもので、「上杉憲実」はこの命名に反対しましたが、持氏は義久を「源義家」に擬して「八幡太郎」の通称を名乗らせ、「鶴岡八幡宮」において元服させました。
「上杉憲実」はこの元服式に出席しなかったため、持氏との対立は決定的なものとなり、8月、憲実は鎌倉を去り、領国の上野国(現在の群馬県)へ戻りました。
これを憲実の反逆と捉え、持氏は「一色直兼」を討伐軍として派遣し、自らも武蔵国府中高安寺に布陣しました。
第6代将軍「足利義教」は「上杉憲実」を救援するため、篠川公方「足利満直」や駿河守護「今川範忠」に出兵の命令を出しました。
さらに禅秀の子「上杉持房」、「上杉教朝」らを含む幕府軍を派遣し、同時に持氏追討令の発給を朝廷に求め、持氏は朝敵となりました。
9月27日には持氏軍は敗れて相模の海老名まで後退し、鎌倉を守護していた「三浦時高」をはじめ味方の裏切りが相次ぎ兵は逃亡してしまい持氏は孤立しました。
持氏は鎌倉に引く途中で「上杉憲実」の家宰「長尾忠政」と出会ったことから、憲実に義教との折衝を依頼しました。
持氏は鎌倉「称名寺」で出家し、「永安寺」に幽閉の身となり、「上杉憲実」は持氏の助命と嫡男「足利義久」の公方就任を懇願しましたが、将軍「足利義教」は許さず、憲実に持氏の追討を命じています。(助命を願う元臣下に討伐させるなんて鬼ですね・・・)
永享11年(1439年)2月10日、憲実の兵が「永安寺」を襲い、持氏は自害し亡くなりました。(永享の乱)。
子の義久も自害し亡くなりました。(鎌倉「報国寺」境内にあるやぐらが義久の墓であるとされています。)
持氏の自害により鎌倉公方は滅亡しましたが、永享12年(1440年)3月に遺児「春王丸」と「安王丸」を担いだ「結城氏朝」、「結城持朝」父子が反乱を起こし、関東は混乱が続きました。(結城合戦)
この反乱も幕府によ制圧され結城氏朝父子は自害し亡くなり、「春王丸」と「安王丸」は処刑されました。
しかし「春王丸」の兄弟で生き残った「足利成氏」が鎌倉に帰還すると、鎌倉公方に就任しましたが、上杉氏と対立していしまいます。
やがて「享徳の乱」発生し、北関東へ逃れると「古河公方」を称し存続しました。
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