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「足利義久」~第4代鎌倉公方・持氏の嫡男~

「足利義久(あしかがよしひさ)」は、第4代鎌倉公方「足利持氏」の嫡男として生まれ、「大若君」と呼ばれた人物です。

目次

生涯

永享10年(1438年)6月に鎌倉「鶴岡八幡宮」で元服すると、義久と名乗りました。
「足利満兼」より、鎌倉公方の子が元服すると、室町幕府将軍から偏位を受け、臣従を示すのが慣例となっており、慣例に従えば「足利義教」より一字を与えられるところですが、これを無視しての命名でした。

これに対し、関東管領「上杉憲実」は諫言するが、父の「足利持氏」はこれを無視し、祖先にあたる「源義家」を例にとり、「鶴岡八幡宮」で義久の元服を行い、義家の通称と同じ「八幡太郎」を称しました。

これにより、幕府に反抗する「足利持氏」と幕府を支持する家臣と対立が起こり、「永享の乱」が発生し、戦いの末「永享の乱」に敗れ自害することになりましたが、その死については三つの説が唱えられています。

「喜連川判鑑」「足利家通系図」「下野喜連川足利家譜」などの記載によれば、永享10年(1438年)11月1日、「三浦時高」と「上杉持朝」、二階堂氏らが鎌倉大蔵谷を襲い、近習を務めていた梁田兄弟や一色、佐野氏らが防戦する中に鎌倉「報国寺」にて自害したものとされ、4日後、嫡男の義久が亡くなったことを知った海老名に在陣中の父「足利持氏」は急ぎ鎌倉に向かい、「長尾芳傳」の陣中で「上杉憲実」と和睦したとされています。

また「永享記」「関東合戦記」「北条記」などの記載によれば、永享11年(1439年)2月10日に、父「足利持氏」が自害した後、2月28日に鎌倉「報国寺」の義久へ討伐される事が伝わり、義久は仏前で焼香し、念仏を十回唱えると左脇を刀を刺し自害したとされています。

また、「古河御所之傳」「系図纂要」では持氏と同日に「永安寺(現在の瑞泉寺総門あたりにあったとされるお寺)」で自害したことになっています。

亡くなった年月日も諸説ありますが「日光輪王寺」の常行堂大過去帳によれば、永享11年2月11日(1439年2月11日)を命日として法要が行われており、17歳でなくなったと推測されています。

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