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「足利満兼」~第3代鎌倉公方~

「足利満兼(あしかがみつかね)」は、父「足利氏満」の嫡男として生まれ、第3代鎌倉公方を務めた人物です。在職期間は応永5年(1398年) – 応永16年(1409年))。

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生涯

第2代鎌倉公方だった父「足利氏満」同様に、第3代将軍「足利義満」の偏諱を受け満兼と名乗りました。

鎌倉公方は父の氏満時代から、京都の室町幕府将軍家と対立関係が続いており、応永6年(1399年)10月に「大内義弘」が堺で義満に対して挙兵した「応永の乱」では義弘に合わせて挙兵し、満兼も、義弘に加勢するため鎌倉から京へ進撃しています。

武蔵府中(東京都府中市)あたりで、関東管領の「上杉憲定」に諫められ、12月に義弘が戦に敗れ戦死したことを聞き、翌年3月5日に鎌倉に戻っています。
6月15日、伊豆の「三島神社」に幕府に恭順の意を示す願文を奉納したことにより、最終的に罪を赦されました。

応永6年(1399年)春には陸奥、出羽が鎌倉府による管轄とされたため、弟の「足利満直」を篠川御所、「足利満貞」を稲村御所として派遣しました。
この措置は奥州の豪族達に反感を持たれることとなり、応永9年(1402年)には室町幕府と結んでいた「伊達政宗」の反乱が発生し、これを「上杉氏憲(のちに改名し上杉禅秀)」に鎮圧させている。

この頃、京都では満兼が発狂したと噂が流れ、室町幕府第3代将軍「足利義満」は満兼の調伏を行なうなど、両者の間に再び不穏な気配が漂い始めていました。

応永14年(1407年)8月29日に鎌倉御所が炎上し、すぐにこれを再建しています。
応永16年7月22日に32歳で亡くなり、嫡男「足利持氏」が第4代鎌倉公方として継いでいます。

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