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「安達頼景」~霜月騒動で一人難を逃れる~

「安達頼景(あだちよりかげ)」は「安達義景」の次男として生まれ、第8代執権「北条時宗」の幕政を補佐し「霜月騒動」で亡くなった「安達泰盛」の兄だった人物です。

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生涯

頼景の2歳年下の弟「安達泰盛」が、嫡男が継承する「九郎」を名乗っており、頼景は庶兄であったと推測されています。

建長4年(1252年)、「宗尊親王」が鎌倉入りする旨を朝廷に使者として伝え、翌建長5年(1253年)に25歳になると、弟の泰盛と共に幕府の引付衆に就任しています。

この年の6月に父「安達義景」が亡くなり、正嘉(1257年)には丹後守に任命され、安達氏の家督である「秋田城介」継承の可能性はなくなっています。

弘長3年(1263年)、「宗尊親王」と深くかかわっており、「後藤基政」と共に六波羅探題評定衆を務め、同年11月の加安倉幕府第5代執権「北条時頼」が亡くなったことによりに出家しています。
文永9年(1272年)に発生した「二月騒動」に連座して関東に召し出され、所領二ヵ所を没収される処分を受けています。

弘安8年(1285年)に発生した「霜月騒動」で安達一族500名あまりが謀殺された際、頼景は弟の泰盛に味方しなかったのか一人無事でした。正応5年(1292年)、64歳で亡くなっています。

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