「安達盛宗」~岩門合戦にて父・泰盛の後を追い討ち死に~

「安達盛宗(あだちもりむね)」は、元寇によるモンゴル帝国襲来時に活躍した、父「安達泰盛」の子として生まれました。

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生涯

鎌倉幕府第8代執権「北条時宗」より偏諱を受けて盛宗と名乗り、建治3年(1277年)6月19日、検非違使に任官されています。

「文永の役」の後、再度の元寇によるモンゴル帝国襲来に備え、建治2年(1276年)に父「安達泰盛」が守護を務めた「肥後国(現在の熊本県辺り)」の守護代として盛宗が九州に赴いています

弘安4年(1281年)6月の「弘安の役」では九州の武士達の指揮官として活躍し、弘安8年(1285年)正月に父「安達泰盛」による弘安改革で戦後処理のために設置された「鎮西特殊合議訴訟機関」(鎮西探題の前身)を取り仕切っています。

同年11月17日、父の泰盛と内管領「平頼綱」の対立による霜月騒動で兄「安達宗景」など、一族郎党が誅殺されると、北九州に赴いていた盛宗は「少弐景資」と共に「岩門城」に籠もり、「平頼綱」方である景資の兄「少弐経資」の軍勢と戦って討ち取られました(岩門合戦)。

「竹崎季長」が描かせた「蒙古襲来絵詞」には、季長の軍功報告を受ける盛宗の姿が描かれています。

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