「安達高景」~東勝寺合戦において自害?異説アリ~

「安達高景(あだちたかかげ)」は、「安達時顕」の嫡男として生まれました。

生没年共に良く分かっておらず、安達氏が歴任した秋田城介を務めた最後の人物です。

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生涯

鎌倉幕府第14代執権「北条高時」より偏諱を賜り、元服し、高景と名乗りました。

「盛」や「景」の字は、先祖代々、秋田城介の官職を継承者するものが、名乗っていたことから、元服した段階で継承者となっていたことが推測されています。

鎌倉幕府第14代執権「北条高時」に姉妹が嫁ぎ正室となっていたことから、権力を握っていた、内管領「長崎円喜」の娘を妻とし、父「安達時顕」とともに北条執権家の外戚として権力をふるったとされます。

また、元徳3年(1331年)には、「後醍醐天皇」の退位を促す使者として「二階堂貞藤」とともに京都へ上洛しています。

史書「太平記」の記載によれば、元弘3年/正慶2年(1333年)5月の鎌倉幕府滅亡となった「東勝寺合戦」において、「東勝寺」で「北条高時」ら北条一門と共に最後を遂げたと書かれている。

異説

「関城繹史」、「常陸資料」などの記載によれば、「東勝寺合戦」において、鎌倉幕府が滅亡したのち、「高景」なる者が、「北条時如(ほうじょうときゆき)」と共に奥州における北条氏の領地へ逃れると、御内人の「曽我道性」に匿ってもらい、同年暮れに奥州北部の「大光寺城」に籠もって反乱の兵を挙げたという記録が残っています。

この記録にある「高景」を「安達高景」であるとする説がありますが、詳細は判明していません。

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