「安達高景(あだちたかかげ)」は、「安達時顕」の嫡男として生まれました。
生没年共に良く分かっておらず、安達氏が歴任した秋田城介を務めた最後の人物です。
「安達時顕」~霜月騒動で失墜した安達家を再興した~
「安達時顕(あだちときあき)」は、「霜月騒動」で討たれた「安達宗顕」の子として生まれました。 【生涯】 弘安8年(1285年)の「霜月騒動」で父「安達宗顕」や祖父「…
目次
生涯
鎌倉幕府第14代執権「北条高時」より偏諱を賜り、元服し、高景と名乗りました。
「盛」や「景」の字は、先祖代々、秋田城介の官職を継承者するものが、名乗っていたことから、元服した段階で継承者となっていたことが推測されています。
鎌倉幕府第14代執権「北条高時」に姉妹が嫁ぎ正室となっていたことから、権力を握っていた、内管領「長崎円喜」の娘を妻とし、父「安達時顕」とともに北条執権家の外戚として権力をふるったとされます。
また、元徳3年(1331年)には、「後醍醐天皇」の退位を促す使者として「二階堂貞藤」とともに京都へ上洛しています。
史書「太平記」の記載によれば、元弘3年/正慶2年(1333年)5月の鎌倉幕府滅亡となった「東勝寺合戦」において、「東勝寺」で「北条高時」ら北条一門と共に最後を遂げたと書かれている。
異説
「関城繹史」、「常陸資料」などの記載によれば、「東勝寺合戦」において、鎌倉幕府が滅亡したのち、「高景」なる者が、「北条時如(ほうじょうときゆき)」と共に奥州における北条氏の領地へ逃れると、御内人の「曽我道性」に匿ってもらい、同年暮れに奥州北部の「大光寺城」に籠もって反乱の兵を挙げたという記録が残っています。
この記録にある「高景」を「安達高景」であるとする説がありますが、詳細は判明していません。
「北条高時」~鎌倉幕府第14代執権~
「北条高時(ほうじょうたかとき)」は、鎌倉幕府第14代執権を務めた人物です。(在職期間:1316年~1326年)。 第9代執権「北条貞時」の子として生まれました。祖父は…
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