「中原親能(なかはらちかよし)」は、中原氏庶流である広季の子とされており、鎌倉幕府の政権の中心人物の一人「大江広元」は弟とされています。
康治2年(1143年)に誕生し、承元2年12月18日(1209年1月25日)に、京都において66歳で亡くなっています。
また、「十三人の合議制」の一人でもありました。
鎌倉幕府初代将軍となった「源頼朝」の側近として活躍し、特に朝廷と幕府を繋ぐ役割を果たし、京都の公家とも交渉を務めるなどその功績は大きいものでした。
大友氏が、九州に大きな地盤を築けたことにも関係しているとされ、「大友能直」の養父であった親能の相続が大きな要因であるとされています。
生涯
治承4年(1180年)権中納言「源雅頼」の家人として京都に務めていたところ、「源頼朝」挙兵から4か月ほど経ったとき、「平時実」が親能を尋問するため訪れたとされます。
この時、すでに親能は逃亡しており、父「中原広季」にも死者と送るもついに見つかることはなかったとされます。
平氏による尋問の目的は、親能が幼少時に相模国において養育されていたことから、頼朝の「年来の知音」であったからだとされています。(史書「玉葉」の記載より)
次に親能の消息が分かるのは史書「玉葉」の記載によれば、寿永2年(1183年)9月4日で、「源雅頼」の元に親能から飛脚が届き、「源頼朝」の使者として上洛すると伝えています。
10月、頼朝は弟の「源義経」を代官として京へ上洛させると、親能も同行したとされます。
寿永3年(1184年)1月20日、「源範頼」、「源義経」の軍勢は「木曽義仲」を撃破し京都へ入りましたが、親能は「源雅頼」の屋敷に入り代官として働き、公家との交渉などを経て、平氏追討作戦を「土肥実平」と共に計画したとされます。
元暦元年(1184年)10月6日、公文所の制度が設置されると、5人のうちの一人に選出され、その後も「源範頼」の三宝を務めるなど活躍し、鎌倉に戻ると幕政の中心として活躍しました。
鎌倉幕府が成立した後も、京都と鎌倉を往来し、朝廷と幕府を繋ぐ重要な役割を果たし、これにより京都守護と称されることとなりました。
日本の各地に多くの所領を持ち、、伊勢国・駿河国・越後国・近江国・美作国・阿波国・長門国・相模国・豊後国・筑前国・筑後国・肥前国・日向国・大隅国・薩摩国などに関連する荘園があったとされています。
正治元年(1199年)に「源頼朝」が亡くなり、「源頼家」が鎌倉幕府第2代将軍となると「北条義時」などとともに「十三人の合議制」の1人となっています。
親能の妻は頼朝の次女「三幡」の乳母を務めていましたが、正治元年(1199年)6月25日、「三幡」が危篤に陥ったことから、京より鎌倉へ戻ったとされます。
6月30日、「三幡」が亡くなると、親能の邸宅があった鎌倉亀谷堂の近くに葬られたとされています。
同日に出家、「掃部頭入道寂忍」と名乗ったと言います。
承元2年12月18日(1209年1月25日)、京都において66歳で亡くなりました。
出自
家系図をまとめた「尊卑分脈」の記載によると、明経道の家系だった中原氏出身「中原広季」の実子で、共に鎌倉幕府の中枢を担った「大江広元」とは兄弟とされています。
またほかの説もあり、「大友家文書録」記載によれば、実父は「藤原光能」であるが、母が「中原広季」の娘であり、外祖父の養子になったとしています。
なお、第4代将軍「藤原頼経」の側近である大外記「中原師員」は、従兄弟の「中原師茂」の子であるとされています。
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