「足利氏満(あしかがうじみつ)」は、第2代鎌倉公方を務めた人物です。在職期間は正平22年/貞治6年5月29日(1367年6月26日)~ 応永5年11月4日(1398年12月12日)
父「足利基氏」と母「畠山家国」の娘との間に生まれました。
生涯
正平22年/貞治6年(1367年)4月、父「足利基氏」が亡くなった後を継ぎ、第2代鎌倉公方となりました。
幼少だったことから、5月に京都から「佐々木道誉」が下向し引継ぎなどの処理を担当しました。
鎌倉公方となってすぐ、正平23年/貞治7年(1368年)1月に「武蔵平一揆の乱」が発生し、10歳という若さににも関わらず川越へ出陣しています。
京都から引き返した関東管領「上杉憲顕」も参戦し、同年6月17日には平一揆を鎮圧しました。
同年(貞治は応安に改元)9月19日に憲「上杉憲顕が」亡くなると憲顕の息子「上杉能憲」と甥の「上杉朝房」が関東管領に任命され、氏満は2人の補佐を受け公方を務めました。
「上杉能憲」がなくなると兄弟で関東管領に就任した「上杉憲春」と協力し「宇都宮氏綱」をはじめとする関東勢力と戦い、関東における支配権を強固なものにし、翌年の正平24年/応安2年(1369年)1月21日に元服すると、従兄で室町幕府第3代将軍の「足利義満」の偏諱により氏満と名乗りました。
天授5年/康暦元年(1379年)、中央で室町幕府内部の抗争である「康暦の政変」が起こると、これに乗じて第3代将軍「足利義満」を討つため挙兵を企てましたが、「上杉憲春」が自刃して諌めると断念しています。
やがて真相は京都の「足利義満」伝わり、氏満は謝罪の使者を送ることとなりました。
この事件をきっかけに義満は氏満への圧力をかけ、氏満の教育係であった「義堂周信」を強引に招請し、義満と結ぶ新しい関東管領「上杉憲方」の圧力も加わりやむなく認めることとなりました。
これ以降、氏満は関東の武家など反勢力と対立し攻撃することによって鎌倉公方の権力拡大を図りました。
新田氏や小山氏、小田氏、田村氏などを次々と討伐し傘下に収め、特に「小山氏の乱」では関東の名門であった小山氏を壊滅させ、上杉氏や関東の有力武家たちへの見せしめとしました。
晩年
元中9年/明徳3年(1392年)、氏満は将軍「足利義満」から陸奥・出羽の統治を任されました。
対立しているにもかかわらず氏満へ権力を与えた背景には、伊達氏や白河結城氏などの東北の勢力を奥州管領が当地できていなかったため、前年の「明徳の乱」を受けて鎌倉府の離反を阻止する意図があったとみられている。
その後も鎌倉公方の足利家と京都の将軍足利家との対立が解消されず、氏満の子「足利満兼」、孫の「足利持氏」と年々対立は激しいものとなって行きました。
応永5年(1398年)病により40歳でなくなっています。
若くしてなくなりましたが、31年にわたって鎌倉公方を務め、在職期間は歴代公方の中では最長でした。
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