鎌倉十橋の一つ「乱橋(みだればし)」は、「源頼義」が創建し「鶴岡八幡宮」の基となった「元八幡宮」近くの「水道道交差点」、「妙長寺」の直近にあります。
歴史
現在は「乱橋」の石碑が建つのみで、橋標が設けられています。
橋は滅茶苦茶小さいので、うっかり見落としてしまうので注意です!(そのままスルーしそうになりました・・・)
史書「吾妻鏡」 には「濫橋」と記載があり、石碑には「亂橋または乱橋」などと書かれています。
画像の感じから見て、川は暗渠となっていそうですね。奥へ続く小路の下に水脈が流れているのでしょうか・・・?
「吾妻鏡」にある、宝治二年(1248)六月十八日の条に「濫橋の辺にて一町程(約100米)南に雪が降り、あたかもあたり一面に霜が降りた様である」との記載があります。
「乱橋」の名称は鎌倉時代の公文書に使用されていた跡が見られ、鎌倉十橋の名が「吾妻鏡」に登場するのは「筋違橋」「濫橋」の二橋のみのようです。
「乱橋」の名は橋だけにとどまらず、元禄時代に材木座村が「乱橋村」と「材木座村」の二村に分けられていたそうです。
明治二十一年(1888)になると、再び両村が合併し「乱橋材木座村」と呼ばれました。
昭和十四年十一月に市制執行により「鎌倉市乱橋材木座」となるが、戦後の住宅表示制度が導入されると、「乱橋」名は消えてしまい、現在の橋跡と石碑を残すのみとなりました。
史書「新編鎌倉志」の記載によれば、「乱橋」は辻町より材木座へ渡り行く石橋なり。鎌倉十橋の一なりとあります。
小さな橋ですが、意外にも様々な史書に記載があります。
「新田義貞の軍勢が鎌倉に攻め入った時に、北条軍がこの橋の付近より崩れ始めた事より乱橋と言う」との言い伝えがあるそうです。
鎌倉が攻められたのは、元弘三年(1333年)の事で、「吾妻鏡」に「乱橋」の名が見られたのは宝治二年(1248年)と大分誤差があります・・・こういう伝承は支離滅裂だったりすることもありますが面白いですね。
いつの時代も勝手な噂が独り歩きするんですね・・・(笑)
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