ご訪問ありがとうございます!!!
今回は都内で唯一の「太田神社」へ行ってまいりました!!!
源平合戦で弓の名手として有名になった「那須与一」を祀る神社です。
弓にちなんで願い事が「一願必中叶わぬ願い事なし」と言われるほどのご利益がある神社です!!1
早速ご紹介いたします!!!
一願必中「太田神社」と那須与一
「一願必中」の旗とがっしりとした「太田神社」の鳥居がお出迎え。
那須与一宗高と守本尊由来記
源平盛衰記の花形、那須与一は後世に弓矢の神と言われた武人である
。この武人の守本尊と伝えられる八幡大菩薩像と太田神社との因縁は、次のように伝承されている。
この地に川島百太郎という旧家があり、徳川時代、この家(当主定右衛門)の女人が将軍家御輿の局方に奥女中として永年実直に奉公した。
永暇を願い出て帰宅の際、局から労をねぎらって下賜された八幡大菩薩を持ち帰ったが、のちに民家に祀るのをおそれて正八幡宮に奉納した。
そのため正八幡宮の本尊」とされたという。
明治初期の神仏分離で正八幡宮は太田神社と長勝寺に分離された。
先年、この像があまり古くなったので、ある塗師に塗り替えを依頼した。
塗師が旧箔を落とし始めると、急に気分が悪くなって病床についたので、像を住職に返すとたちまち病気が治った。
住職が不思議に思って像を調べると、背部に「那須與市宗高本尊を記されていたという。
当太田神社は、第二次世界大戦の空襲で焼失したが、この像は長勝寺に安置されていたので消失をまぬがれ、昭和二十二年ごろ、現在の住職によって同神社に奉還された。
この像の高さは台座を含めて15,5センチで、背部の旧箔の落ちた部分に、薄れていて全部は判読できないが、正八幡宮と那須與市宗高の墨書が確認できる。
因みに当太田神社のご祭神は、誉田別命(応神天皇)で奥津彦命、興津姫命(竈神)宇迦御魂命(稲荷)高龗命(貴船)が合祀されている。昭和63年11月3日 太田神社の石碑より
境内へ続く「太田神社」の階段です。
訪問時はあじさいの季節は過ぎていたのですが、「太田神社」のあじさいはまだ綺麗に咲いていました。
「太田神社」が良い空気のパワースポットだからでしょうか!?
太田神社「境内」には古い井戸が残っていました。
「太田神社」の「手水舎」
こちらは「太田神社」の摂社となる「稲荷社」です。
太田神社の歴史と那須与一
太田神社の歴史
南無八幡大菩薩、我が国の神明、日光の権現、宇都宮、那須の湯泉大明神、願はくは、あの扇の真ん中いさせてたばせたまへ(平家物語より)
寿永4年(1185)2月、屋島の戦いにて那須与一宗高公が祈念して放った矢は、見事扇を射抜きました。「平家物語」にも描かれるこの逸話は広く知られるところですが、当社は、その那須与一公が守本尊とした神像を御神体として安置し、古来よりその故事にちなんで「願えば叶わぬことなし」と厚く信仰されています。
また那須与一公が一本の矢一発で見事扇を射抜いたことから、一度の挑戦をものにしなければならない入学祈願、学業成就祈願、スポーツ競技の勝利祈願などにご利益があるとされて、古くより多くの参拝者が御祈願に訪れます。
鎮座年月日は不明ですが、文化、文政期に編まれた「新編武蔵風土記」にはすでに当社の事が記載されており、さらに当社保存の明細帳には、天明3年(1783)に氏子31戸にて、社殿を再建した記録が残されています。
さらに戦前には300年以上の年輪松が存在し、大森羽田方面の漁船の出入りの目標にもなっていたこと等から、おそらく当社の創建は350年以上も前にさかのぼるものと推測されています。
当社の古くは「八幡社」と呼ばれていましたが、明治5年から10年の間に「太田神社」と改称されていました。その理由は不明ですが「北条分限帳」では、当時の市野倉から六郷までを所有していた太田新六郎の氏神だったことから「太田神社」と改称したと伝えられています。
さらに太田道灌が江戸城築城の際、この地を候補地とし遊猟の折に検分したためという説も存在し、いずれの説が正しいかは確証がありません。
明治以前の神仏混淆時代は、覚應山「長勝寺」が別当として管理していましたが、明治初年の神仏分離以降に独立し、現在では上神明神社(品川区)宮司の斉藤康之氏が太田神社の宮司もかねてご奉仕しています。
明治45年4月25日には、周辺にあった竈神社(かまどじんじゃ)、稲荷神社、貴船神社(貴船神社は元本門寺の鬼門除として東の院に建立した後に長勝寺の境内にうつした。)を合祀し、昭和5年8月11日には旧社殿を移修しましたが、惜しくも昭和20年5月24日の大空襲で、社殿、舞踏とも焼失してしまいました。
しかし木造衣冠装束の御神体は覚應山「長勝寺」に安置されていたため、奇跡的に難を逃れ現在に至っています。
戦後まもなく氏子会が結成され、昭和28年に拝殿が造営されました。その際、別当寺の「長勝寺」に一時的にお移ししていた御神体は、旧市野倉町内を巡幸した後、真新しい太田神社社殿に遷座されました。
その後平成6年に本殿の造営が行われますが、万一の際の火災に備えて、完全耐火構造の鉄筋コンクリートで施工されました。実に空襲による焼失以来49年振りの御本殿造営となりました。
その他境内には、明治34年に氏子より奉納された御影石の鳥居、昭和35年に造営された社務所、昭和50年に造営された神興倉などがあります。
太田神社発行のパンフレットより
太田神社と那須与一の伝説
太田神社「本殿」です。こちらで願い事をすればの那須与一公のご利益があります。
「一願必中、叶わぬ願い事なし」となることでしょう!!!
太田神社と那須与一の伝説
太田神社は古来、家運隆昌、武運長久の神として、氏子はもちろんのこと他所からの参拝者も多くみられました。
往時の鳥居にの石額には「家運八幡宮」とあり、また現存する手水舎にも「家運」と刻まれています。
これは木造衣冠装束の御神体が、那須与一講の守本尊と伝えられていることに因みます。
那須与一公は、屋島の戦や壇ノ浦の戦に、この御神体を守本尊として身に着けて戦いに挑んだため、明治から昭和にかけて多くの出征軍人が参詣し、武運長久を祈願しました。
当然ながら太田神社と那須家とのかかわりも強く、後世には、「南無妙法蓮華経 那須宗高 守本尊 家運正八幡宮道、これより一丁」と刻まれています。
この道標は往時、「長勝寺」参道とし池上道との交点の右角にあり、のちに太田神社境内に移設されたものです。また、太田神社の裏山は「那須原」ともよばれており、太田神社と那須与一公との関係がふかいことを物語ります。
また御神紋は「一菊紋」で、木造衣冠装束の御神体が安置されている御厨子の屋根、太田神社役員半纏などにも描かれています。一説では、後白河法皇から下賜されたと伝えられていますが、確証はありません。
太田神社発行のパンフレットより
真新しい太田神社の「注連縄」
太田神社の「神輿蔵」お祀りのなどに使用される神輿(みこし)が納められています。
意外と長く急な「太田神社」の石段。振り返るとなかなか景色が良かったです!
太田神社からの眺望
市野倉高台突端にあり、計63段の石段を昇った高台に位置します。ここからの眺望は京浜間随一で、晴れの日には東南に大森羽田の海と、遠く房州の山々を望見し、西には京都を思わせる国宝本門寺の五重塔や富士の秀峰を眺め、北には桐里、梅田、池上の丘陵に接するなど、古くより景勝地として知られています。
太田神社発行のパンフレットより
「太田神社」基本情報とアクセスマップ
「太田神社」は静かでいながらパワーに満ちた、良い空気で隠れたパワースポット!!!という感じでした。
恋愛から学業出世まで「一願必中願えばかなわぬことなし!!!」のご利益を是非体感しに行ってみて下さいね!!!
下に基本情報とアクセスマップを載せておきますね!
写真付きで「太田神社」までのアクセスが知りたい方はこちら!!!
「太田神社」基本情報
住所 東京都大田区中央6丁目3番24号
拝観料、拝観時間 なし
電話 03-0753-4529
主祭神 誉田別尊
合祀神 竈神社、稲荷社、貴船神社
氏子 市野倉北町会、市野倉南町会
境内 明治初年435坪、現在569坪(実測)
太田神社ホームページ
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