「靖国神社」戦争の歴史を学べるパワースポット!!!

ご訪問ありがとうございます!

今回行ってまいりましたのは、何かと話題に登る「靖国神社」です。

諸事情はさておき、広々としていて空気感の良いパワースポットです!

早速ご紹介します!!!

最寄駅からの「靖国神社」へのアクセスはこちらの記事を!!!

「大鳥居」「慰霊の泉」「大村益次郎像」などなど


まず目に飛び込んでくるのが「靖国神社」「大鳥居」です。

九段下駅あたりからも見えるほど巨大な「大鳥居」です。工事中でした(2018年11月現在)

常陸丸殉業記念碑

明治37年(1904)日露戦争が勃発し、同年6月14日、後備近衛歩兵第一総隊長須知中佐は、その第二大隊と第十師団糧食縦列とともに、常陸丸に乗船して宇品を出港し、勇躍征途についた。

翌15日午前十時頃、沖ノ島付近に達すると、折からの雲霧の切れ間より突如として三隻の敵艦が現われ、猛砲撃を加えてきた。もともと海戦の装備を持たない輸送船のこととて、まったく応戦の術なく、忽ちにして船上は修羅の巷と化し、搭乗の山村海軍中佐をはじめ、船長、航海士も相次いで倒れた。

野戦攻城にかけては鬼神をも取りかしぐねき益良雄(勇気のある人)も会場では如何ともしがたく、今はこれまでと覚悟した総隊長は、皇城を遥拝し、軍旗奉焼した後、従容として自決し、大隊長山縣少佐以下1000名余りの勇士も、無念の涙を呑んで玄界灘の波間に没した。

武備なき輸送船の常陸丸の悲劇は、その後の数々の詩歌に歌われて広く人口に膾炙し、人々はその悲運の最期を悼んだ。

常陸丸遺族会設置の説明板より

田中支隊忠魂碑

第一次大戦は、四年余りにわたって戦われたが、特にロシアに与えた影響は甚大で、大正6年(1917年)3月、革命が起り、翌年3月にはドイツと単独講和を締結してロシア軍はほとんど解体状態となった。

当時オーストリア、ハンガリー軍のチェコスロバキア人兵士の中からロシア軍に投降し、連合国側に協力していた約5万人のチェコスロバキア軍団は、ウラジオストクから欧州の連合国側戦線に増援のため同地に移動していたが各地でロシア過激派(革命派)等の抵抗を受けていたので、日本、アメリカ、イギリス、フランスなどの各国はチェコスロバキア軍救援の名目でシベリアに軍を派遣することを決定した。

日本からは第12師団が派遣されることとなり、大正7年(1918年)8月、ウラジオストクに上陸し、9月初めにはハバロフスクに進軍した。田中支隊が属する歩兵第72総隊は、更に西進してアムール州(現在の中国黒龍江省北方)方面の過激派討伐に任じたが、広域のため小部隊を僻地に分散配置して苦戦を強いられていた。

第3田大隊長田中勝輔少佐は砲兵等の配属を受けて田中支隊を編成し大正8年(1919年)2月25日、敵の退路を遮断する任務を受け、ユフタ(ブラゴベシチェンスク北方)付近に達するや、敵の大集団が北方に退却しつつあるのを知り、香田驍男歩兵少尉の指揮する小隊(44名)を偵察のため派遣したが、約20倍の敵の攻撃を受け負傷者3めにの他全員戦死した。

支隊主力は香田正体を起援中、26日朝香田小隊を覆滅したテキト遭遇したが衆寡懸絶して包囲され、敵に多大な損害を与えたが支隊長は敵弾を受け自刃し、全員壮烈な戦士を遂げた。更に配属の砲兵中隊及び歩兵1小隊は西川達次郎砲兵大尉が指揮し、ユフタにおいて待命中、主力方面に銃声を聞き救援に赴いたが優勢な敵と衝突し負傷して戦場を退いた5名の外、107名悉く火砲と運命を共にした。

この忠魂碑は、重傷を負い生還された山崎千代五郎氏が戦友の悲壮な最期を想起し、その神霊を鎮めるため昭和9年2がつ26日、九段下に建立されたものを平成8年9月3日現在地に移設したものである。

本碑台座部分には、大正8年2月27日、第12師団長大井成元陸軍大将から同支隊に授与された感状(昭和43年2月27日再建復刻)が刻まれている。

歩兵第72総隊戦友会設置の説明板より

慰霊の泉

戦没者の多くは、故国の母を想い、清い水を求めながら息を引き取りました。この彫刻は清らかな水を捧げる慈愛にあふれる母を抽象的に表したものです。

またこの母の像の外壁は、日本古来の宮や社にある固有の簡素は佇まいを表します。そして背後には第二次世界大戦激戦地の意志を収集して展示しております。

一般社団法人東京キワニスクラブ奉納の説明板より


こちらは↑の説明文にあった「戦跡の石」です。


出た!神々しい「大村益次郎」通称「まっさん」

大村益次郎銅像

大村益次郎は文政(1824年)周防国鋳銭司村(現、山口県山口市)の医者の家に生まれ、はじめの村田蔵六といった広瀬淡窓について蘭学を学び、嘉永のはじめ宇和島藩に仕えてはじめて西洋式軍艦を設計建造。さたに江戸に出て私塾「鳩居堂」を開き、幕府の講武所教授等を務め蘭学者、蘭方医、兵学者としてその名を高めた。

ついで桂小五郎の推薦により長州藩に仕え、慶応2年、第二次長州征伐の折に石洲口の戦を指揮して幕府軍を破り戦術家として脚光を浴びた。戊辰戦争では新政府の軍務局判事に任じられ、大総督府に参じ東北の乱中を平定。ついで兵部大輔に任じられ、律議して軍政を洋式に改めることを主唱したため攘夷主義者を刺激し、京都出張中の明治2年(1869年)九月、不満士族に襲われて重傷を被り、同年11月5日大阪にて歿した。46歳。

明治2年6月、戊辰戦争戦没者を祀る東京招魂社(現、靖国神社)の創建に際し、社地選定のため同月12碑、この地を視察したことも記録に見え、靖国神社創建者としての功績は大きく、明治15年、伯爵山田顕義らにより銅像の建立が発議され、宮内省から御下賜金の御沙汰もあり、彫刻師大熊氏廣に塑型の政策が委嘱された。

大熊氏廣は明治9年、工部美術学校の開設と同時にその彫刻科に入学し、イタリア人教師らぐーざの薫陶をうけ、同15年に首席で卒業する。卒業後は工部省に入り、皇居造営の彫刻制作に従事、明治18年に大村益次郎の銅像制作を委嘱されると、この任を重んじ彫刻研究のため欧州に留学する。パリ美医術学校ではファルギエルにつき、ローマ美術学校ではアレグレッティ、さらには巨匠モンテヴェルデに入門した。大熊氏廣の帰朝後、漸く明治26年にいたりこの地にわが国最初の西洋式銅像が建立された。大熊はキヨソネの描いた大村益次郎の肖像画や遺族らに取材しながら制作にあたったという。陣羽織をつけ左手に双眼鏡を持ち、東北の方を望む姿は、上野東叡山にたてこもる彰義隊討伐の時の様子といわれる。のちに大熊は、有栖川宮熾仁親王などの彫像を制作し、文部省美術展覧会審査委員を務めた。

「第二鳥居」「大手水舎」「神門」


「大鳥居」をくぐり、色々と慰霊碑などを見てくるとこちらの「第二鳥居」へ到着します。

写真には写っていませんが、すぐ右隣に「北門」があります。このあたり警察官の方が警備されていました。


「第二鳥居」を抜けたらこちらの「大手水舎」でお清めをしてから参拝致しましょう!!!


こちらは「拝殿本殿」手前にある「神門」です。迫力あるぅ!!!

「神門」前の広場は多くの方が写真を撮っていました。夕陽が出ている頃に行くとなおGood!です。

「中門鳥居」「拝殿本殿」「南門」


こちらは「中門鳥居」奥に見えるのが「拝殿本殿」です。

靖国神社御由緒

靖國神社は、明治2年(1869)6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた招魂社しょうこんしゃがはじまりです。
明治7年(1874)1月27日、明治天皇が初めて招魂社しょうこんしゃに御親拝の折にお詠みになられた「我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき」の御製からも知ることができるように、国家のために尊い命を捧げられた人々の御霊みたまを慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社です。

創建当時、日本は近代的統一国家として大きく生まれ変わろうとする歴史的大変革(明治維新)の過程にありました。それ以前、日本は徳川幕府の政権下にあり、約250年にわたって鎖国政策をとり海外との交流を厳しく制限していました。ところが、アメリカや西欧諸国のアジア進出に伴って日本に対する開国要求が強まると、開国派と鎖国派の対立が激化し、日本の国内は大きな混乱に陥ります。そうした危機的状況を乗り切る力を失った徳川幕府は、ついに政権を天皇に返上し、日本は新たに天皇を中心とする近代的な国づくりに向けて歩み出すこととなったのです。
しかし、そうした大変革は、一方において国内に避けることのできない不幸な戦い(戊辰戦争)を生み、近代国家建設のために尽力した多くの同士の尊い命が失われる結果となりました。
そこで明治天皇は明治2年6月、国家のために一命を捧げられたこれらの人々の名を後世に伝え、その御霊を慰めるために、東京九段のこの地に「招魂社しょうこんしゃ」を創建されたのです。
この招魂社が今日の靖國神社の前身で、明治12年(1879)6月4日には社号が「靖國神社」と改められ別格官幣社に列せられました。
明治天皇が命名された「靖國」という社号は、「国を靖(安)んずる」という意味で、靖國神社には「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。

靖国神社ホームページより一部抜粋 靖国神社ホームページはこちら


こちらは「中門鳥居」の脇にある「南門」です。市ヶ谷方面から来られる方はこちらが一番近い入り口となります。

「靖国桜」「能楽堂」「遊就館」「参集到着殿」


さきほどの「拝殿本殿」の右手には「能楽堂」があります。

この広場には春になると、「靖国桜」が咲き誇ります!!!


こちらは「遊就館」様々な歴史を学ぶことができます。

中国の古典、荀子の言葉から「君子は居るに必ず郷を擇び、遊ぶに必ず士に就く」の文言から「遊」「就」を取って名付けたそうです。


こちらは「到着殿」左隣には「参集殿」があります。

「到着殿」は皇族や要人の参拝控室として、「参集殿」は主に一般の方の正式参拝のための控室として使われています。

「鋼製30ポンド船用加農砲(カノン砲)」

安政元年(1854年)伊豆下田港外に碇泊中の露国軍艦ディアナ号は大地震により座礁した。乗組員は幕府に請い、スクーナー船2隻を造り、これに乗じて帰国した。露国政府はディアナ号の備砲52門を幕府に贈り、その厚誼を謝した。

口径160ミリメートル 全長2570メートル

説明板より

「相撲場」「行雲亭」「上池庭園」


こちらは1869年より続いている「奉納相撲」が行われる「相撲場」です。

普段はひっそりしていますが、「奉納相撲」の際は人であふれかえります。


「行雲亭」奥には「靖泉亭」「洗心亭」があります。

月曜日から土曜日まで、裏千家淡交会東京支部役員の先生方による茶道教室が開かれているそうです。


こちらは「神池庭園」1999年の復元工事でかなりの「名園」だったことが発掘され判明したそうです。

新潟県から取り寄せた「錦鯉」が泳いでいます。新潟の「錦鯉」は品氷塊などが開かれていて有名ですね!

まとめ

いかがでしたか???

ニュースなどで政治問題に取り上げられる「靖国神社」ですが、もともとは明治時代からある「招魂神社」が名を変え規模を大きくし「靖国神社」となったのです。

諸事情はさておき!とても空気感の良いパワースポットでした!!!

疲れたときは遠出しなくても都内にあるパワースポットで休まれてはいかがでしょうか???

最寄駅からの「靖国神社」へのアクセスはこちらの記事を!!!

その他、東京の神社にご興味ある方はこちらもどうぞ!!!

 

 

 

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