ご訪問ありがとうございます!
今回ご紹介いたしますのは、神谷町「西久保八幡神社」でございます!!!
かつては徳川将軍家も崇拝していた神社です。幾度と重なる火災にもめげず、ひっそりと静寂を守っている隠れスポットです。
それでは早速ご紹介いたします!!!
「西久保八幡神社」男坂へのアクセス!
東京メトロ日比谷線「神谷町駅出口2」が「西久保八幡神社」へのアクセスの最寄り出口です。
「神谷町出口2」を出たら右方向(写真で見ると左方向←←←です。)
「神谷町出口2」を出て右方向へ真っすぐアクセスすると「飯倉交差点」という、おそらくほぼ毎日警察官が警備しているだろう交差点があります。
「飯倉交差点」からは「東京タワー」見えます。
こちらの少し「神谷町駅」へ戻ったあたりに「西久保八幡神社」は鎮座しています。
周りのビルなどに囲まれるようにして「西久保八幡神社」は静かに建っています。
「西久保八幡神社」男坂から振り返った所です。鳥居と結構長めの階段があるのですぐにわかるはずです。
「西久保八幡神社」へのアクセス完了です。お疲れさまでした。
「本殿」と「御祭神」おみくじ10円は最強
こじんまりとした境内にたたずむ「西久保八幡神社」の「本殿」です。「飯倉八幡宮」と呼ばれることもあるそう。
ここではなんと・・・おみくじが10円で引けるんです!驚きました!!!
「西久保八幡神社の「御祭神」は、品陀和気命(ホンダワケノミコト)、息長帯比売命(オキナガタラシヒメノミコト)、帯中日子命(オキナカツヒコノミコト)という神様がお祀りされています。
「由来」と「貝塚」
「西久保八幡神社の由来」
1004~12年ころに「源頼信」が、石清水八幡宮から分霊し、霞ヶ関のあたり(榎坂とも)に創建しました。
「太田道灌」の江戸城築城に際し(1457年ころ)、現在地に遷され、江戸時代には2代将軍の「徳川秀忠」正室の崇源院により1600年、家康・秀忠の関ヶ原の戦での戦勝と安全を祈願し、その報賽として社殿建立の遺志を残した。
3代将軍「徳川家光」により1634ころ社殿が造営され、同時に御神体の木像(八幡宮座像・仲哀天皇座像・神功皇后座像)と明王像(不動明王立像・愛染明王座像)も奉納された。(1723の火災により焼失したそう。)
1723年、1811年の2度の火災により宝物や書物などは悉く失われてしまいました。1818年に神社は再び再建されています。
1770年、1815年、1816年には境内で大相撲が行われ、当時の横綱「阿武松緑之助(おうのまつみどりのすけ)」も相撲を取りました。
その後も再建された「西久保八幡神社」は明治維新の神仏分離までは、八幡山普門院と称し、東叡山の末寺として、江戸八所八幡の一つに数えられ、八八幡詣(ややはたもうで)として多くの参詣を受け、周辺は門前町として賑わったそうです。
しかし昭和20年にはアメリカ軍の焼夷弾爆撃を受け再び、社殿をはじめ焼失してしまいます。
終戦から有志の方々の再建によって現在の「西久保八幡神社」があります。
「西久保八幡貝塚」
港区虎ノ門飯倉交差点の北側にあたる台地の先端に西久保八幡神社があります。この社殿の裏手側斜面に貝塚が形成されており、都心部に良好な状態で残る貝塚と言えます。
本貝塚が知られたのは昭和の初めころに遡りますが、正式調査を経ぬまま今日にいたっていました。昭和57年度の都心遺跡調査団による分布調査で存在が確認され、調査が行われました。
御鎮座壱千年奉祝記念碑
「西久保八幡神社」の御鎮座を祝う奉納記念碑。
数々の火災や空襲にも負けず、氏子の方々が「西久保八幡神社」を復興した記念碑です。
「稲荷社」「人麿社」「庚申社」
出世などにご利益ある「稲荷社」、そしていまいち由来が分からなかったのですが、歴史上の人物「柿本人麻呂」と関係しているの???「人麿社」、そして庚申祭などで建てられる「庚申社」があります。
とても静寂な雰囲気の境内には、ベンチも置いてあり涼やかな風を感じながらお昼ご飯を食べているサラリーマンの方などもいました。
近くには、絶景の「東京タワー」、出世の石段で「有名な愛宕神社」などもあるので足を延ばして見学してみるのも良いですね!!!
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