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「源頼朝」~鎌倉幕府初代将軍・武家政権の創設~

「源頼朝(みなもとの よりとも)」は、鎌倉幕府の初代征夷大将軍。

久安3年(1147年)4月8日父「源義朝」、母「由良御前」の3男として、現在の愛知県である、尾張国熱田で生まれました。
幼名は「鬼武者」、「鬼武丸」。

目次

生涯

「清和天皇」の孫だった「源経基」を祖先に持ち、前九年の役で活躍した「源頼義」、後三年の役の「源義家」、祖父の「源為義」などがいます。

頼朝の父「源義朝」は、保元元年(1156年)の「保元の乱」において「後白河天皇」について「平清盛」らと共闘し、敵味方に分かれていた父兄弟を戦後やむなく処刑しています。

平治の乱

平治元年(1159年)12月9日、父「源義朝」は「後白河上皇」と「二条天皇」を内裏に捕えましたが、26日になると上皇と天皇はともに内裏から逃れています。
27日、上皇が逃げたことから官軍となった「平清盛」らが攻め寄せ、立場が逆転し賊軍となった「源義朝」達は京から東国へと落ち延びるなか長男「源義平」次兄「源朝長」など一族郎党が次々と討ち取られていきました。

永暦元年(1160年)、頼朝は捕縛され京都で処刑されそうになったところを「平清盛」の継母だった「池禅尼」の訴えにより処刑を免れ、3月11日に頼朝は伊豆国へと流されます。

伊豆の流人時代

頼朝が伊豆国で過ごした時代の記録はあまり残されていませんが、この時期のちに頼朝の後ろ盾となる「北条時政」やその子らである「北条義時」や妻となる「北条政子」などと出会っています。

伊豆での流人時代には、「安達盛長」、「河越重頼」、「伊東祐清」、「佐々木定綱」らが付き従ったとされます。

頼朝は伊豆国の「箱根権現」を信仰していたとされます。

流人時代には「三善康信」から京都周辺の情報収集しながら再起の時を伺っていました。

この時代に「北条時政」の娘「北条政子」と結婚し「大姫」が生まれています。

平氏討伐への挙兵

治承4年(1180年)、「後白河法皇」の子「以仁王」による平家追討の令旨が発布され、「以仁王」は「源頼政」とともにこの戦いで戦死しています。

平氏による源氏追討の令旨が出されると、頼朝は坂東武者たちへ協力を呼びかけ挙兵しました。

挙兵してすぐの治承4年(1180年)8月17日、頼朝の命で「北条時政」らが「山木兼隆」を韮山において襲撃し討ち取っています。

伊豆国を平定し相模国へと向かう中、合流予定の三浦一族の援軍が間に合わず「石橋山の戦い」で大敗を喫しています。

敗戦後、頼朝は「土肥実平」らとともに安房国(千葉県)へと脱出しています。

関東において

治承4年(1180年)8月29日、安房国に降り立った頼朝は、安房国の豪族「上総広常」と「千葉常胤」、武蔵国では「足立遠元」、「葛西清重」の働きかけによって「畠山重忠」、「河越重頼」、「江戸重長」などが頼朝の陣営に加わっています。

10月に入り頼朝は鎌倉へ入りました。

鎌倉五山第3位である「寿福寺」の周辺に父、義朝や兄の義平の住んでいた館があったとされています。

頼朝らの挙兵に対し平氏は、「平維盛」らの軍勢を差し向けました。

これに対抗するため頼朝は10月に鎌倉を立ち、豪族を制圧しながら黄瀬川に陣を敷き、迎え撃つ準備をしました。

10月20日、甲斐国の「武田信義」らと共に「富士川の戦い」で平氏の軍勢を討ち破ります。

この頃、奥州「藤原秀衡」を頼っていた異母弟の「源義経」が参戦しています。

この頃「石橋山の戦い」で頼朝を追い詰めた「大庭景親」を処刑しています。

鎌倉へ帰還した頼朝は「和田義盛」を侍所の別当に抜擢、侍所は後の鎌倉幕府における軍事と警察の権限を持つ役職となって行きました。

養和元年(1181年)2月4日、「平清盛」が熱病で亡くなり、平氏への挙兵も全国的となると「源義仲」が活躍し始めます。

このころの関東は全てが頼朝の味方だった訳ではなく、奥州の藤原氏などは平氏、源氏のどちらに加担するでもなく、中立の立場を崩しませんでした。

養和元年(1181年)7月頃、頼朝は平家と和睦しようとしますが、平氏の頭領となった「平宗盛」は先に亡くなった「平清盛」の遺言に従い和睦を拒否しました。

大飢饉により平氏と源氏の戦闘が一時止む中、養和元年(1181年)8月に鎌倉幕府第2代将軍となる「源頼家」が生まれています。

源義仲(木曾義仲)との争い

寿永2年(1183年)「源義仲」が、頼朝と対立する叔父「源義広」、「源行家」を保護したため、頼朝と義仲関係は険悪なものとなって行きました。

争いを避けようと義仲は、嫡子「源義高」を頼朝の長女「大姫」の婿として鎌倉に送り和議を結びました。

「源義仲」は合戦で連勝し平氏を京都から追い払うと「後白河法皇」から平氏追討の命令をうけます。

義仲の軍勢が京都に入ったことで、飢饉よる都の食糧事情が劣悪なものになり、皇位継承への介入などにより朝廷や貴族から反感を買い始め、「後白河法皇」は「源義仲」に平氏追討のため西方へ向かわせた隙に頼朝に上洛を促しましたが頼朝はこれを断っています。

この頃朝廷は頼朝に対し、東海道と東山道の年貢、官物を頼朝が進上すること、頼朝の命に従うよう指示を出しています。

これにより朝廷に「反乱軍」とされていた頼朝軍は、朝廷に認められた勢力となりました。

この頃、頼朝の挙兵時代から付き従っていた「上総広常」が東国の自立を主張していたため、頼朝の命令で「梶原景時」に誅殺されたとされています。

10月15日、「源義仲」は「後白河法皇」に頼朝追討の命を出すよう働きかけますが断られ、平氏と頼朝の間に立たされた義仲は、「後白河法皇」を拘束し頼朝追討の宣旨を強制的に出させました。

寿永3年(1184年)に入ると頼朝は「征東大将軍」に就任し、頼朝の弟たち「源範頼」と「源義経」は数万の大軍を率いて上洛し、「源義仲」は粟津の戦いで討ち取られています。

義仲の子「源義高」は処刑されそうになっており、妻の「大姫」は義高を逃がすため義父である義仲の死を伝えたとされます。

頼朝は追手を差し向けると、武蔵国入間川原で「源義高」を討ち取り、これを聞いた「北条政子」は激怒し、義高を討った家人を処刑させたとされています。

西国における平氏との戦い

「源義仲」を討伐した「源範頼」と「源義経」は、西国へ出陣して行きます。

頼朝は「源義経」を代官として京に置き、畿内を掌握するとともに九州や四国の武士に平氏追討の要請を行っています。

「源範頼」が総大将となり、平家追討軍が鎌倉から出陣し、「北条義時」「足利義兼」、「千葉常胤」、「三浦義澄」、「結城朝光」、「比企能員」、「和田義盛」、「天野遠景」らが従軍したと言います。

文治元年(1185年)に入り、平家追討の総大将「源範頼」から物資補給の要請や、関東への帰還を望む武士たちの声も増えていたとされます。

この状況の中、「源義経」は「後白河法皇」に許可を得て讃岐国屋島に出陣すると「屋島の戦い」に勝利しています。

九州の武士の協力により兵糧と船を得た「源範頼」は、寿永4年(1185年)3月24日「壇ノ浦の戦い」で平家を滅亡させ、「平宗盛」らを捕縛しました。

義経との争い

文治元年(1185年)4月、平家追討で侍所所司として「源義経」の補佐をしていた「梶原景時」から書状が届けられ、頼朝の許可なく朝廷から任官を受けることが禁じら、さらに朝廷からの任官を受けた坂東武士たちへ東国への帰還を禁じました。

しかし、「源義経」はこれらを咎めなかったとされています。

義経は様々な越権行為をしていたとされ、同年5月になると御家人達に対し、義経命に従うなと指示が出されます。

義経は「平宗盛」父子を引き連れ凱旋しましたが、頼朝は鎌倉入りを許さず、「平宗盛」父子のみを引き渡すよう要求しました。

義経は頼朝に対し許しを請う「腰越状」を送りましたが、義経を鎌倉に入れず「平宗盛」父子と「平重衡」を伴い京へ帰るよう命じています。

その後、叔父「源行家」の追討を「佐々木定綱」に命じ、義経の挙動を調査するため「梶原景季」を京都へ派遣しました。

義経は叔父「源行家」追討の要請を、病であること、同じ源氏であることを理由に断っています。

ことことを「梶原景季」から報告を受けると、義経を誅するべく家人の「土佐坊昌俊」を京に送っています。

これに対し、義経は「後白河法皇」に頼朝追討の宣旨を求め、「土佐坊昌俊」らの襲撃を叔父の行家と共闘し撃退しています。

10月24日、頼朝は父「源義朝」を弔うため「勝長寿院」落成供養を行い、同日に頼朝追討宣旨へ対抗し、上洛の命を御家人たちに出したが、ほとんどの者がこれに応じなかったといいます。

頼朝は自ら出陣、京都の義経は兵を集めることができず、家臣や行家と共に京から離脱しています。
この時、妾の「静御前」が吉野山で捕らえられています。

頼朝をおそれた朝廷は、「源義経」と「源行家」の追討の宣旨を出しています。
この頃「守護・地頭」が「大江広元」の助言により設置されています。

文治2年(1186年)5月、潜伏中の叔父「源行家」が斬られています。
その後も、義経を匿う者や義経の腹心の郎党たちを発見すると処刑して行きました。

朝廷にも見捨てられ、行き場を失った義経は、奥州の「藤原秀衡」に助けを求めました。
このころ頼朝は、戦火に焼けた京都の「東大寺」再建工事などを行っています。

義経追討と奥州征伐

頼朝は、平家に続き奥州藤原氏に狙いを付けました。

文治2年(1186年)4月、「藤原秀衡」に対し、奥州から都に献上する年貢を頼朝が取り次ぐ旨を伝えると「藤原秀衡」もこれに応じています。

文治3年(1187年)10月に「藤原秀衡」が亡くなると「源義経」が奥州で匿われていることが判明し、頼朝は秀衡の子「藤原泰衡」たちに義経を討つよう朝廷から命令を出すよう工作しています。

義経追討宣旨が発令されると1189年2月「藤原泰衡」は衣川館に住む「源義経」を襲撃して自害させています。

義経が討ち取られると「和田義盛」と「梶原景時」が首実検したといいます。


8月8日、「石那坂の戦い」で「佐藤基治」(義経に付き従った、佐藤継信・佐藤忠信の父)を打ち破り、「阿津賀志山の戦い」において「藤原国衡」の奥州軍を破った頼朝は、「藤原泰衡」を追い詰めて行きました。

藤原家の拠点「平泉」を制圧すると、「藤原泰衡」から許しを請う書状が届けられましたが、頼朝はこれを無視しさらに泰衡を追い詰めて行きました。

9月3日、「藤原泰衡」は配下の「河田次郎」の裏切りにより討たれ、6日に泰衡の首級が頼朝へ届けられています。

主君を裏切った「河田次郎」も斬首され、「前九年の役」で祖先の「源頼義」が「安倍貞任」の首を晒したことに倣って「藤原泰衡」の首を晒したといいます。

戦いを収め鎌倉に帰還した頼朝は、後に中尊寺境内を模した「永福寺」を建立しています。(現在は「永福寺跡」の史跡が残っています。)

この奥州合戦をもって、日本国内の内戦が終結して行きます。

征夷大将軍任命

文治5年(1189年)奥州では、「大河兼任の乱」が発生、「足利義兼」や「千葉胤正」らの活躍によって、文治6年(1190年)3月に「大河兼任」は討伐されました。

建久元年(1190年)10月3日、頼朝は上洛を決意し、11月7日京都に入り「後白河法皇」に拝謁し、長時間余人を交えず会談したといいます。

11月9日の夜、頼朝は「九条兼実」と政治への協力体制を築くなど、40日間という短い京都への滞在中に「後白河法皇」との対面は8回を超えたとされ、今後の朝廷との関係構築に努めました。

建久2年(1191年)3月4日の夜、鎌倉は大規模な火災に見舞われ、大蔵幕府など広い範囲が消失し、頼朝は現在の「甘縄神明社」の近く「安達盛長」の邸宅に逃れて無事であったとされています。

建久3年(1192年)3月、「後白河法皇」が崩御し、同年7月12日、新たに即位した「後鳥羽天皇」によって頼朝は「征夷大将軍」に任ぜられています。

晩年

建久4年(1193年)5月に御家人を集め「富士の巻狩り」が行われ、12歳の頼家が初めて鹿を射止めると頼朝はこれを喜びましたが、妻の「北条政子」は武士なら当たり前であるとつれない反応であったとされています。

28日夜、御家人の「工藤祐経」が「曾我兄弟」の仇討ちにより殺されると、頼朝が討たれたとの誤報が鎌倉に伝わり、「源範頼」は「北条政子」に対し「範頼左て候へば御代は何事か候べきと」と慰めこれが範頼の災いとなります。

範頼は謀反を疑われ、頼朝を激怒させた「源範頼」は伊豆へ流されました。

建久6年(1195年)2月、頼朝は京都の「東大寺」再建供養に出席し、長女「大姫」を「後鳥羽天皇」の妃にすべく「土御門通親」や「丹後局」と接触すると、大量の贈り物や莫大な荘園の安堵などして、朝廷工作を図りましたが、「大姫」の死により「後鳥羽天皇」との婚約は失敗に終わりました。

さらに次女「三幡」の入内を目指し、「三幡」は女御の宣旨を受けることに成功します。

建久9年(1198年)12月27日、頼朝は相模川で催された橋供養からの帰り道で体調を崩したと言います。
有名な落馬による死は、事実か分かっていませんが、建久10年(1199年)1月11日に出家した頼朝は、1月13日に53歳で亡くなっています。

「鶴岡八幡宮」近くの「白旗神社」の丘の上に「源頼朝の墓」が残されています。

頼朝とゆかりのある鎌倉史跡

言わずと知れた鎌倉観光の定番スポット!「若宮大路」の桜並木を通っていくも良し、隣を並走する「小町通り」で買い食いやお土産を見て回るのも楽しい、鎌倉ビギナーも楽しめる歴史スポットです!

歴史的には、頼朝の子「源実朝」暗殺など数々の歴史の中心となった場所でもあります。

鎌倉「銭洗弁天」は、頼朝が、1185年に霊夢を見たことが創建のきっかけだそうです。(蛇年、蛇月、蛇の日に夢をみたらしいです・・・ほんまかいな!でも凄い!)

その夢の教えに従い現在の「銭洗弁天」の場所で、岩壁に湧く銭洗水を見つけました。そこに洞窟を掘って宇賀神(うがじん)をおまつりし創建したと言われています。

あるとき、頼朝の夢に「佐助稲荷」の神様が現れたとのこと。(頼朝はん夢見がちやな・・・)頼朝の若い時の名前は兵衛佐と言いました。

鎌倉幕府を開いた頼朝は神社を再興し、その周辺地を寄進したとされ、若き日の佐殿を神様が助けたことから「佐助稲荷神社」と呼ばれるようになったそうです。

頼朝が「征夷大将軍」となり権力を握り「鎌倉幕府」を開いたことから別名「出世稲荷」とも呼ばれています。(出世間違いなし!)

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