「源頼朝」日本初の武家政権、鎌倉幕府の初代征夷大将軍!

こんにちは。

最近は鎌倉をメインに旅先の写真と共に記事を書いてきました。

私は歴史が好きなのですが、友人と旅行へ行くと「歴史を知ってるからただ観光に行く人より楽しめそうだね。」と言われることがありました。

なので、旅先と関係ありそうな歴史上の人物を簡潔にまとめて紹介していこうかと思います!

「源頼朝」鎌倉幕府の初代征夷大将軍!

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源頼朝に関する鎌倉旅行の記事はページ下部に置いてあります↓↓↓見てみてくださいね~

鎌倉幕府の初代征夷大将軍として知られる源 頼朝(みなもと の よりとも)は源氏のボスだった源義朝(みなもとのよしとも)の三男として生まれました。

生年は1147年4月8日で、幼名は鬼武者、または鬼武丸。現在の愛知県の名古屋に生まれたといいます。

父が平治の乱(1159年)という源氏と平氏の争いで敗れると静岡県の伊豆地方へ流されてしまいます。

源頼朝肖像画 その1
源頼朝さん
(出典Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/)

平氏との戦い

流された伊豆で暮らす間に、以仁王(もちひとおう)の平氏追討の依頼を受け、北条時政(ほうじょうときまさ)父子などの武士団と平氏打倒の兵を挙げました。

鎌倉を本拠として関東を制圧していくと、弟たちを自らの代わりとして源義仲や平氏を倒して行きます。

平氏のボスだった実力者の平清盛(たいらのきよもり)が1180年に亡くなると、徐々に源氏側が有利になっていきました。

京都を拠点としていた平氏は、清盛が亡くなると朝廷の後白河法皇(ごしらかわほうおう)が裏で反乱を画策したりと翻弄され弱体化していきます。

1183年には倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで平氏軍が壊滅するとますます勢力を失い。

1185年に追い詰められた平氏側は壇ノ浦で源義経、範頼の源氏軍が平氏を滅ぼします。

源頼朝肖像画 その2
頼朝さん別バージョン
(出典Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/)

「源義経」を討ち奥州征伐、征夷大将軍として鎌倉幕府を開く

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奥州討伐

源義経肖像画
源義経さん
(出典Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/)

1185年、壇ノ浦で平氏を滅ぼした弟の「源義経」を、その補佐をしていた梶原景時(かじわらかげとき)から、義経が勝手なふるまいをしているとの報告が頼朝に入ります。

朝廷(現在の天皇家)から勝手に官位をもらったり、頼朝に相談せず部下に賞罰を与えているなどです。

鎌倉に新たな武士政権を創設中であった頼朝は、これを聞くと義経に厳しい処置をとりやがて追放します。

歴史を興味ある方はご存知かと思いますが、この後奥州(現在の東北岩手県あたり)の藤原秀衡(ふじわらのひでひら)を頼って落ち延びていきます。

藤原秀衡肖像画 藤原秀衡さん
(出典Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/)

藤原秀衡は莫大な財力を持ち、かなりの実力者だったそうで、彼が号令すると奥州の17万騎もの軍隊が集められたといいます。

秀衡がいるうちは手を出せなかった奥州ですが、1187年に秀衡が亡くなります。

その後を継いだ泰衡は統率力がなかったようで、大勢いた息子たちで争いがおこります。

さらには頼朝の脅しに屈して義経を討ち取ってしましました。

その後はあっさりと?頼朝に攻め滅ぼされています。

征夷大将軍就任

1190年ころには敵対勢力もなくなり、京都で朝廷の後白河法皇なと面会し今後の政局について話し合ったりしています。

1191年には鎌倉に戻り、翌年1192年になると、朝廷で権力を持っていた後白河法皇が亡くなります。

同年の1192年、法王が存命中は希望してもかなわなかった征夷大将軍に就任しています。

諸説ありますが、この征夷大将軍への就任を持って鎌倉幕府が開かれたとする見方が一般的です。

源頼朝の晩年

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1193年に現在の静岡県で御家人を動員し巻き狩りを行いました。

このとき長男の頼家が鹿を仕留めるのに成功しました。

当時巻き狩りで獲物をしとめると、神様から源氏の棟梁を継ぐことを認められたとする風潮があり、たいへん喜んだ頼朝は妻の北条政子(ほうじょうまさこ)にわざわざ報告し怒られたりしたという話があります。
同年の1193年には御家人どうしの争いがあり、頼朝が討たれたとの誤報が鎌倉に伝わりました。

このとき頼朝の妻、政子に「兄の頼朝が亡くなっても私がいます。」的なことを言ったことが原因で謀反の疑いを掛けられ伊豆へ流されています。

1195年には頼朝は東大寺再建供養に、妻や子供を伴い上洛します。

この時、長女の大姫を後鳥羽天皇の妃にするために、京都の貴族たちに大量の贈り物を送り朝廷工作を図っています。

しかし、1197年には長女の大姫が亡くなり計画がとん挫しています。

その後は朝廷工作が思うように進まなかったりしています。

1198年になると、現在の神奈川県にある相模川で催された橋供養の帰り道体調を崩しています。

亡くなるきっかけが落馬と良く言われていますが詳しくは分かっていないそうです。
1199年になるとに出家しています。

それからまもない1月13日になくなります。

満53歳でした。

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