「考えない方法」第1~2章「内観」により心を解放しよう!

「考えない方法」考えるほど不安になっていく

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旅ばかり書き連ねていたので、読書して得た教訓なども書いて行きます。

今回読んだのは、小池龍之介さんの「考えない練習」です。

人間思考を巡らせない日は一日もないと思います。皆さんはいかがでしょうか?

私は煩悩欲望の塊みたいな人間ですので、お酒、お金、女など、「お」の付くものは大好物でございます。

昔よりはマシになった、というより多少の制御が効くようになったところでございましょう。

こちらの本は、そんな暴走する私のおつむを大分マシにするきっかけを下さいました。

特に個人的に参考になった部分を書いていきます。

注!個人的な効果や感想ですので、ご自分で工夫して参考にしてくださいませ

第1章 思考と言う病

私は、昔からいつも考えこんで生きてきました。それは幼少期のトラウマにあると今では朧げに分かってまいりましたが、

それはまた別でして・・・この本では「考える」ことが私たちの心身にどんな影響があるか説明されています。

色々な方が「よく考えて。」なんて言いますので、考えるっていいことじゃないの?と私など思って生きて来ました。

本の中で、静かに自分の内面、心の中を観察してみることが書かれています。

今もそうですが、ちょっと作業を停めて自己観察すると

「どうやって書いたら読者が増えるかしら。」

「煩悩最高!」

「ブラジャーを顔面につけたら、カップの部分が目のようで、ハエ男っぽいな。」等と考えているのが分かります。

こういう下らないことを、人間は四六時中考えていて、今取り組んでいることにこれっぽっちも集中していない状態が多いそうです。
私も心当たりが多すぎます。

例えば、ご飯を食べているときは食材の味や香り、口に感じる触感などに意識を向けます。

これが食事をしている状態で、食べながらテレビに夢中になっていたり、ペラペラしゃべくっている時は食事に集中していない状態です。
(話には集中しているかもしれませんが・・・要するにどっちかにしろってことでしょうか・・・?)

これも大いに心当たりがあります。やってはいけないという事ではなくて、行為に対する集中力が下がっている訳です。

ほかにも他人の言動に傷て付き、一日中気にしていたりすれば集中力はガタ落ちです。「煩人」の一兆上がりです。

こういった状態は、凄い量のエネルギーを消耗してしまいます。

個人差はあると思いますが、これが毎日続いているとしたらどうでしょうか?

毎日が恐ろしいほど非効率的になってしまいます。

記事を書いている今、寒くて動きたくない私はトイレを我慢し、行くべきか行かないべきか「迷って」います。

そして、集中力がダダ漏れなのに加えて、私自身もダダ漏れなるかもしれない・・・恐怖と言う「迷い」まで出てきました。

こうした目の前にあるリアルな実感が遠のき薄まっている状態を、著者の小池氏は「無知」の「煩悩」と呼んでいます。

こんな状態一刻も早く抜け出したい!!!(これも煩悩です。)

それではどうしたら良いのでしょうか?

ここで小池氏は仏教の「八正道」を取り上げています。

ステップ1 自分へのルールを決め、芯をつくる。

正思惟(しょうしゆい、思考内容を律する)

正語(しょうご、言葉を律する)

正業(しょうごう、行動を律する)

正命(しょうみょう、生き方を律する)

ステップ2 集中力を養う

正定(しょうじょう、集中する)

正精進(しょうじょうしん、心を浄化する)

ステップ3 気づく

正念(しょうねん、心のセンサーを磨く)

正見(しょうけん、悟る)

この中でも、一番初めの「正思惟」つまり「正しく考える」ことに取り組むことを勧めています。

掃除機をかけるとします。

その時に考えるべきことは、どの場所から掃除機を掛けて行くと無駄なく短時間でキレイになるかな?
等の必要最小限のことです。

間違っても、出てきた助平な本やDVDを読んだり、「ルンバがあればこんな掃除なんてしなくていいのに!。」とイライラしたりするのは

大いに意味のないことであります。

肝心の掃除がちっとも捗らずに余計にストレスが増すことは必至でございます。

人間関係も取り上げられています。

目の前の人間と話すこと聞くことに意識を向けた方が良いのに、目に映る他のものに心奪われたりして話半分にきいたりしていると、会話が

上手くいかないばかりか、喧嘩したり、無駄に嫌われたりと余計な損害が出てしまいます。

こんな感じで、目の前の事と違うことを考えることは、生きていくうえで大損害であります。
そのためのトレーニング方法が紹介されています。

煩悩を克服するのが仏道のスタート

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その方法としてもっとも有効なのは「瞑想」であるとの事です。
しかし、「忙しくて、時間もそうした機会もない人はどうりゃ良いのよ?」となります。

諦めてください。

そんなことは、小池氏は言いません。

お勧めの方法は、常に「今自分が何をしているのか」と、自身に問いかけることだそうです。

「今自分は、食べているのか、見ているのか、聞いているのか、匂いを嗅いでいるのか。」

このように時々意識的に自分を観察します。

すると、突然気が付く瞬間が訪れます。

「今友人と一緒に会話しているのに、飛んでるちょうちょを見てるな。」等です。

こういうことに気が付けたら次に、「心の働き、注意を変える。」事をします。

頭の中で「考えて」いる状態が強いなら、それを「感じる」方へ意識を持っていきます。

友人がはなしているなら、何を話しているののか、伝えようとしているのか。

ご飯食べているなら、口内に感じるご飯の触感や味に意識を向けます。

そうしていくと、「感じる」方へ意識が向き「考えて」いる状態が薄まっていきます。

著者は特別なことをしなくても、ある程度は心をコントロールすることが可能であると説明しています。

こういった「気づく力」を仏道では「念力」と呼んいて、心の状態に気づくための意識センサーです。

そして、その後に取り組む、二つ目に出てきた方法の「心の働き、注意を変える。」ことを「長州力」もとい「定力」と呼んでいます。

これは「集中力」のことで、ふらふらと飛び交う意識を、集中して意識をグッと捕まえて一つの場所に集め定めること。

まずは自分の五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)のどれが優位になっているかを観察し自覚することが大切ということでございます。
第一章はこんな具合です。
もうこれだけわかれば、普通に日常生活送るのには十分すぎる気もいたします。

実際「私は今怒っっている。」「私は不安になっている。」などと何かにつけて考える様にしたら、大分衝動的な行動が減った気がします。
以前よりはるかに、物事への集中も増してきました。

本に書いてあるから絶対に正しいではなくて、まずは書いてある通りにやってみたなら、あとは自分の工夫を交えて手ごたえを感じる様に使っていけば良いのではないか?と思います。

「考えない方法」第二章「話す」とは!?

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前回は「五感」に意識を向け「今自分が何をしているのか。」を観察し「心の働き、注意を変える。」事を紹介しました。

今回は小池龍之介著「考えない練習」の第二章から得たことを簡略化して説明してみます。

この本は第二章にほとんどのぺーじが割かれているのでちょっと長くなりそうですが、行ってみます。

まずは、話すことに付いて書かれてあります。

前回この本の中で紹介されている「八正道」の中に「正語」というのがありました。

この正しく話すというのが非常にに難しいことであるという事です。

昔の私などはエゴの塊みたいなものでしたので、ペラペラペラペラとしゃべりまくっては他人様に嫌な顔をされていたと思います。

今となっては、「話すのなんて楽勝じゃん。」と考えていた自分を恥じている次第であります。

今11月で大分寒くなって来ました。季節柄上司や仕事のお客さんと会った時に「最近めっきり冷えて嫌ですよね。アハハッ!」と言ったとします。

自分では「寒い季節は嫌いじゃないし、別に笑うような面白おかしい事ではない。」と思っているとします。

そうしますと、実際口に出した言葉と、心の中で考えていることにギャップが発生します。

相手他人を見たときに勝手に反応するような癖が出来上がってしまっている状態です。

他にも自分が自慢話や何か気持ちよく話している時に、他人から「凄いですね。」「へぇ、そうなんですか知らなかった!。」

などと煽てられようものならば、更に図に乗って喋り捲る「壊れかけのレディオ」となるかも知れません。

私たちは一見話したいように自由に話しているつもりでも、そこにあるのは

「刺激によるインプット」「インプットされた刺激に対する決まった反応」です。

これが極めて進むと昔(今も言うの???)良く言われた「オバタリアン」になる訳です。

この文章を読めるほどの読者女性の方ならば、まさかそのような事はございますまい。

かくいう私はそのようになりかけていたので「元オジタリアン」とでも申せましょうか。

この状態は「話している」と言うよりも「インプットされた刺激(この場合は音)」によって「話をさせられている」訳です。

では意識的に自由に美しい言葉を話すにはどうしたら良いのでしょうか?「きこしめす」とか使ってみたいですねぇ・・・

ここで著者の小池氏が提唱されているのは

話し方の基本は、自分の声音の観察から

とのことです。

例えば、何か自分の話を聞いて欲しくて仕方ない時など、大きな声に早口でマシンガントークしてしまいます。

相手に認められたい欲

が強ければ強いほど、何とか情報量を詰め込もうと必死になります。
(心当たり多すぎであります。)

しかし残念なことに、このような状態でラウドでスピーディに自慢話やご高説を垂れ流すと、聞いている側の

怒りの煩悩

を引き起こします。おそらく同意も得られないかと・・・

相手にとっても良いと思って話しているのにこれじゃあやりきれない。

更には「なんでこんな良い話をしてるのにわからねんだ。アホさこいつは。」なんて自分も煩悩に狂ってくるかもしれません。

反対にゆったりした調子で話したらどうでしょうか。

穏やかな声の大きさと高さで話されると、誰もが落ち着いて耳を傾けてくれることでしょう。

私の今までの体験としましてもそのようであったと思われます。

相手にとって良い事をする

のは恐らく相当の力量がないとできないと思います。

私のような凡人ですと、まずは

相手にとって不快な事をしない

ことが、元々の目的であった。「相手に話を聞いてもらうこと」が達成されるのでは?と考えますが、皆さんどうでしょうか???

では、話す際に気を付けると良さそうなことは何でしょう。

その方法として本に書かれていますのは、常に自分自身の声を意識的に聴くこととあります。

自分の喉を響かせている音の刺激に意識を集中するのです。

こんな風に書いてあると愚かにも私などは「自分の声何なんて普通に聞こえてるよ。当たり前のこと言ってバカなの?」

等と今まで学んだことは何だったのかと言う言葉と煩悩が溢れ出してきます。

そんな反応を知っての事か小池氏は、誰もが自分の声を聞いていると思っているでしょうけれど、ぼんやりと聞いているだけです。

話している時は、相手の話を聞くことや自分が何を話すか、相手にどう思われるか・・・などを

考えてばかり

自分の声はついでに「おぼろげ」にしか聞こえていない。と述べています。

ここから離れるべく意識的に、自分の声に集中して聴くよう努めるとずいぶん違った感覚を感じると思います。

こで重要なポイントは「ゆっくり」だとか「穏やか」になどと脅迫観念に駆られ自分を追い詰めないことだとあります。

ただ自分の声音に意識を向ける。それだけで良いのであります。

こういった事を心がけておりますと、もしも声が高くなったり早くなりすぎていたら、心が自然に違和感に気づいてくれるとのことです。

他人が大きな声で喚いたり、早口で捲し立ててきたら嫌な気持ちになります。

そういった風他人を見るような感覚で、客観的に自分を観察していくのが重要でごあります。

昔の私なぞ他人を批判するばかりで、全く客観性ゼロのどうしようもない阿呆でございました。

会話の途中で間を置いて話すのもお勧めで、たくさんあれば価値を感じなくなり、少なければもっと欲しい、そんな風に感じるのが人間でございます。

自分も「もう少し話したいな。」くらいで留め置くのが、結果的に相手も話し手に惹かれのではありますまいか。

「慢」の煩悩が余計な口答えをさせている

例えば、「さっさと勉強しなさい。」などと母親に言われたとします。

すると私でしたら「今やろうと思っていたんだ、馬鹿者!」と怒鳴るかもしれません。

こういった言葉の刺激が聴覚を刺激したとたんに、「慢」の煩悩にスイッチが入り「思考」が暴走を始めてしまうのです。

無自覚に話を聞けばなおの事反応してしまう事でしょう。

「慢」

とは良く思われたいという

自己評価

を気にし、プライドにしがみつく「欲」の煩悩のとのことです。

他人からよく見られたいと言う欲もありますが、自らの株を下げたくないという自己イメージへの執着であります。

上の例であれば、

「わざわざ声を掛けないと勉強しないと心配されている。」

「やる予定でいたのに。できない人間と思われているな。」

「母上は拙者を理解されていない!むきーっ!!!あ、う〇こ漏れちゃったな。」

みたいな感じで、言葉を聞いた瞬間「思考」が暴走しついつい余計な反発口答えをしてしまいます。

「いまやろうと思っていたんだけど、そういう事言うから僕ちゃんやる気なくしちゃった。」

「慢」の煩悩に駆られていると、表面上謝っていても、「アンタが気分を害したから上手くできないかもしれない。」と言うような否定的なニュアンス毒が含まれてしまいます。

「自己評価」など気にしていなければ、他人が何を言おうが言うまいがさっさと目的に向けて淡々と取り組んで完成させてしまえば良いことであります。

良く思われようと他人の顔色を窺った途端に、半分謝り半分口ごたえをする分裂状態になってしまいます。
大いに心当たりあり過ぎて肩身狭い思いでございます。

ではどうして行くのが良いのでしょうか?

否定的な事を「考えない方法」

このことについて小池氏は具体的に書いてくれています。

ちょうど良いサンプルとして、私などが今までして来たことと言えば、文句愚痴を言って怒りをぶちまけ「発散」すること。

もう一つは事実に目を向けなかったことにしようとする「抑圧」です。

「発散」はすればするほど怒りのエネルギーにより、自らに怒りを埋め込んでしまいます。

この時心の反応は「発散」される刺激により「気持ちの良い事だ、これは。」となります。

すると段々と怒りやすい性格に変貌を遂げてしまうとのことです。

先程の「刺激によるインプット」」と「インプットされた刺激に対する決まった反応」の関係の一兆上がりです。

そしてその感情を「抑圧」していくと「怒り」別の形の「怒り」をぶつけることになり、より屈折したひねくれ者になって行ってしまうとのことでございます。

これに対する仏道からの方法は「見つめる」ということだそうです。

「見つめる」などと言うと美しいに女性に見つめられたいと思ってしまいますが・・・否、あまりジロジロ見られるのは苦手ですので遠慮させていただきましょう。

ということで、この第二章「話す」の部分は終わりです・・・まだまだ続きそうでして、私がダレて来そうなのでまた次回へ持ち越させていただきます。

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